福島県への視察【3】 南相馬市の被害状況と現状
7月26日、日本共産党川崎市議団は南相馬市を訪れました。役所危機管理課からの状況報告を受け、その後同市小高区の被災状況、同市福浦小学校の状況を視察しました。
1)南相馬市役所でのレクチャー
東日本大震災及び原発事故対策調査特別委員長を務める渡部寛一市議(日本共産党)も同席して報告していただきました。
まず、南相馬市復興企画部危機管理課のみなさんからお話を伺いました。危機管理課長は「南相馬市の人口の4割が市外に避難しているという被災のただなかにある。報道も明らかに減っていて、このまま風化していくことが何より心配だ。視察していただいてありがたい、どうか本市の現状を広めてほしい」と話しをはじめられました。
被害状況
危機管理課のみなさんからの説明は以下の通りでした。
ア、津波などの被害状況
南相馬市では947人が亡くなられた。上図の赤く塗られたところが津波浸水したところ。赤い線は原発から20kmの線で、黄色線は同じく30kmの線。
イ、次々と「避難指示」が
被災直後の状況は下表の通りで、3月12日5:44に「10km圏内避難指示」、次に同日18:25に「20km圏内避難指示」、さらに15日11:00には「30km圏内屋内待機」と次々に指示が出されたが、当初はどこが20kmなのか線引きが不明で混乱した。
さらに3月15日に屋内退避が指示され、以降は日常生活や物資に困るようになった。支援物資を積んだトラックは30km圏内に入れず、南相馬から福島市など中通りまで車を出して取りに行っていた。物資がなく困難な状況はしばらく続いた。
ウ、集団避難
3月15日以降は市がバスで集団避難を誘導した(下画像)。
さらに警戒区域・計画的避難区域・緊急時避難準備区域などが指定され、市民が自分の家に自由に入れないようになった。
エ、2012年4月、区域の見直し
今年の4月16日に区域の見直しが行われ、以下の3つの区域に整理された。
①居住制限地域(年間20ミリsvをこえる恐れのある地域、130世帯510人が居住=下図のオレンジ色部分)
②帰還困難区域(5年後も年間20ミリsvを下回らないと考えられる区域、1世帯=下図のピンク色部分)
③避難指示解除準備区域。(年間20ミリsv以下が確実な地域、3800世帯13000人=下図の緑色部分)
原発事故後の集団避難・自主避難により、7万人いた南相馬市の人口が2011年3月26日には約1万人に減った。2012年7月19日現在では、44,773人の市民が市内に戻っている(19,621人が市外)。
現在の放射線量はこの市役所で0.3マイクロsvほど。子どもがいる家庭などは避難を続けているところが多い。企業や商店なども復興が始まってきているが、子育て世代の女性がいないことにより、パートの働き手がいないことがネックになって産業の復興が遅れている面がある。看護師、介護などでその傾向が特に強い。
汚染の実態把握について
続いて質疑応答の内容をまとめて報告します。
・発災当時は全く放射線についてはわからなかった。実態把握しようにも、機材もなかったというのが初めの状況だった。
・南相馬市は独自にモニタリングを始めた。今はモニタリングポストでの測定が中心になっている。原発事故に関しては、国からも県からも連絡はなくテレビの報道しかなかったというのが直後の状況。放射性物質飛散についての国の調査はしばらくたってからだった。放射線測定機材の費用は市独自に一般財源で出した。国や県を待っていられない状況だった。
・渡部議員:20km圏内の警戒区域は、警察も自衛隊も線量が分からない中でどうしたらいいか?というところからのスタートだった。
原発事故直後、避難範囲などの指示内容が次々に変わったが?
・渡部議員:いまだに政府から文書でも口頭でも指示が届いていない。12日18:25の「20km圏内避難指示」もラジオで知った。そして市は広報車を出して「○○中学校へ避難してください」などと知らせた。足りないので私の宣伝カーも出して避難指示を広報した地域もある。この間住民に一切のパニックはなかった。
・その後、住民のみなさんは長期避難することになったが、「すぐ戻れるだろう」というつもりで、着の身着のまま避難して苦労された方も多い。市内避難→屋内退避など何度も非難を繰り返した人もいる。
・原発事故は「起きない」「仮に起きても避難は必要ない」と言うのが市の基本的な姿勢だった。EPZ(緊急時計画区域=防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲)は双葉地域の10km圏内とされていたため、南相馬市は避難じたい準備していなかった。実際には7万人の人口のうち6万人が避難するという事態になってしまった。南相馬市には「原子力防災計画」がなかった。(合併前の原町市で)東海村JCO臨界事故の際に「事故は起こりうるのだから、防災計画をつくらせてほしい」と要望したが、国・県はつくらせてくれなかった。
被災直後と現在の状況は?
・渡部議員:即日ガソリン不足になった。その経験から、いまでも「なにが起こるかわからないから半分になったらすぐ給油する」という人も多い。役所の職員のみなさんも対応に追われ、空いた時間にカップラーメンを歩きながら食べるような状況で市民のために頑張っていた。
・米・水・トイレットペーパーなどがなく、話に聞く戦後のような状態が1ヶ月続いた。原町区は現在居住可能な地域だが、原発事故後の物資不足によって餓死したと思われる人もいた。
・渡部議員:現在市内にいる44,773人のうち、私もふくめ約1万人は借り上げ・仮設住宅に住んでいる。「震災関連死」が311人(上図)、多くは遠距離避難によるもので、長期にわたる避難で本来まだ生きられる人が亡くなってしまっている。そしていまも増え続けている。除染はまだ学校・公共施設で行われたのみで、一般的除染はまだスタートしていない。仮置き場が決まらない、というのが理由だが、そもそも中間貯蔵施設、最終処分施設を政府が決めていないのがおおもとの原因だ。こうした中で学校に戻った児童はごく一部にとどまっている。
・市内、付近の市も含め、医療機関は十分な医療環境が整っていない。若い人の多くが避難しているため「看護師不足で入院を受けいれられない」という現状だ。橋、道路などハードのインフラではなく、住民生活に欠かせない生活インフラが回復できていない。将来が不安だ。
市職員の被害、行政への影響は?
・消防団員が所轄の沿岸部で亡くなっている。原発事故以降心が動揺して、職を辞して避難する職員も2~30人いた。多くの若い職員は「こんなときこそ市民のために」と家族を避難させて“逆・単身赴任状態”で踏みとどまっている。
・「行革」で職員が減るなか、1100世帯の集団移転や、復興公営住宅などにも人員が必要で、復興のために普段の約3倍の業務をこなさなければならず、激しい人員不足だ。
・渡部議員:その際も原発事故が問題になる。市民が「この地にいたい」と思えば復興公営住宅も必要になるが、「この際だから南相馬を離れよう」という人も多いのが現状だ。
・避難している市民への保育・介護などの行政サービスが課題だ。たとえば住民票を川崎市に移してしまえばそれらのサービスが川崎市で受けられるが、南相馬市の被災者むけの施策が受けられなくなってしまう。だから、住民票を南相馬市に置いたままで市外でも行政サービスを受けられるよう、各市と協定をむすんできている。
・最後に話したいのは、なにより原発事故を風化させないことだ。避難している人の生活支援、再生できるようにしてほしい。国・県には、原発事故の被害から元に戻れるまで支援をしてほしい。
2)小高区(避難指示解除準備区域)のいま
26日午後、渡部寛一市議の案内で市内の被災状況などを視察しました。
沿岸部
リアス式海岸の地域とは異なり、南相馬市は沿岸部に平地が広がっているため、市の面積の約1割が浸水しました。車・船は津波で流されてきたもので、この場所から海は肉眼では確認できませんでした。
井田川干拓地(0メートル地帯)。震災後水門を開くことができずに上流からの水がたまり続けてしまい、4月の時点でまだ左下写真(日本共産党福島県委員会『福島』号外より)のように水没してしまっていました。右下写真が7月26日時点の同地点。
市街地
地震で倒壊した家屋などが3.11から1年以上そのままの状態で放置されていました。
「避難指示解除準備区域」となってから、日中の立ち入りが可能となったため、解体作業が次々に始まっています。
震災廃棄物の「仮置き場」が決まらないため、「仮の仮の仮置場」に野積みされています(左2枚)。「警戒区域」が解除されたため、住民が家の片づけに来ているが、水道も出ずゴミの収集もないため、片づけたゴミも外に出したままにせざるを得ない、とのことでした(右)。
3)福浦小学校視察
最後に、南相馬市立福浦小学校を視察しました。鹿島小学校の校庭に建てられたプレハブ校舎を使って、真野小学校とともに授業などを行っています。
校長先生にご案内をいただき、数人の先生から、被災当初は廊下で授業を行っていたこと、階段の下に長机を4つ並べて職員室としたこと、クーラーもなく支援の扇風機でしのいだことなどをうかがいました。
また現在は、仮設住宅から朝6時半からスクールバスで登校していること、一部屋を仕切って二校の教室にしていること、保護者のみなさんの疲労が蓄積していること、子どもたちも外で思い切り遊べないためストレスがたまっていることなど、苦労されていることや心配されていることを教えていただきました。
4)視察を終えて
この2日間の、福島県庁、共産党県議団、ひまわりの家、農民連、南相馬市役所、小高地区、福浦小学校への視察を終え、放射線被害の影響があまりにも大きいことが痛感されました。
政府は「収束宣言」をしたものの、住民はバラバラになったままで、「震災関連死」をはじめとする被害がいまだ拡大しています。
この視察で、政府の自治体への支援が不十分なため福島県内の除染はまだごく一部しか行われていないこと、自主避難者かどうかによって支援や行政サービスに差がつけられていることを目の当たりにしました。またそのことによって「家族といっしょの生活」「いままで通りの農業」など、原発事故前のままの暮らしや生業をとりもどすことが困難になっていることがわかりました。
いま行うべきことは、国と東京電力の責任で全面的な除染と賠償を行ない、避難区域から避難して帰還を切望する県民も、避難先での定住を求める県民も、長期被ばくの不安から自力避難した県民も、不安を抱えつつ残ることを決めた県民も、分断の線引きをすることなく、ひとしく支援する義務を政府が果たすことです。
私たち川崎市議団は、この視察を力に「原発ゼロの日本」をつくり、原発事故で苦しむ福島のすべての被災者を支援するために、ひきつづき川崎市議会での論戦・政策提案をおこなっていきます。